蒼と縁側で話してから数日後、当然事態は何か変わるわけでもなく、しかし表向きはいたって平和で何の変哲も無い日々が過ぎていた。

―――なんて言えばいいのか。「父さん、春もいるんだから女のヒトを家に連れてくるのはやめて」と訴えたら聞いてくれるんだろうか。

ありえない、と泉は一人で頭を振った。
父が今まで大丈夫だと言ったことは本当に大丈夫なので泉も何も言えないのだが、今回は春のことがあるのだ。
しかしそこは価値観の違いか、春に情事が割れるなど父はそう大した事ないように感じているようだった。
確かに事実、自分は幼いときから父の女遊びは知っていたが、でも自分は春の兄で母から頼まれている。父の価値観で春に早すぎる男女の関係を知らせてしまうことは激しく嫌悪感を感じるのだった。例え今はまだ理解できないにしても・・・だ。




無口でいて眉間にシワをよせていてはいかに紅顔の美少年の泉といえども近寄りがたい。
というかいつもそんなせいで泉はヒトから遠巻きに見られているのだが泉自信はヒトと話すのが得意なほうではなかったのでそれでもイイと思っていた。
泉は昼間は特にすることがないので外を散歩するのが最近の日課になっている。
少し前学校を卒業してから、家庭の悩みのせいでほとんど将来のことを考えていないことも彼の悩みをさらに深くする。

住宅地を抜けて、少し賑やかな通りを抜けるとまずまず大きな川がある。橋がもちろんかかっているが、その橋は歩いて5分ほどで渡れるほどの川幅だ。
流れも穏やかでそこまで深くもないが中心へ行けば泳げるほどはある。魚も結構泳いでいて夏の間は子供たちの格好の遊び場になっていた。
もっともまだ初夏なので水が冷たく数人犬をつれた人々や同じようにぶらりと来る人影があるくらいだった。
天気が良く初夏の日の光が浅瀬の水をきらきらと照らしては流していく。
時折見える小魚の影を目の端で追いながら泉は川べりに腰を下ろした。
彼はここで川の流れるさまを見ているのが好きで、ここで一人でいるときは幾分か悩みも忘れて落ち着ける、あまり若者らしくは無い趣味だが、いたって彼らしいと言えば彼らしいことだ。

多分少しの時間経ったとき泉は、見覚えのある姿を認めて顔をあげる。
「あ・・・椿さん―――」
「あっ泉君っ。」
声をかけると同時に『椿』と呼ばれた少女が人懐っこく満面の笑みで彼の名を呼ぶ。
「三月ぶりくらいっ??わーこんなところで会えるなんてっ」
少女は泉と同じくらいの年格好、暗褐色の長い髪を可愛らしく結い上げ、爽やかな小花の柄の白緑色の着物の裾をぱたぱたと少しはためかせながら泉の傍に走り寄って来る。
彼女は泉の同級生の女の子で、無口な泉にも気兼ねなく話しかけて来てくれた数少ない人物であった。
明るい表情のよく似合う可憐な顔立ちで凄い美人というわけでは無いが少なくとも学校では人気があったように思う。
あまりそういうことに頓着が無い泉ですらそう知っているのだから、実際はもっと沢山憧れていた男子生徒は多かったんじゃないかと泉は思っている。



「私、今学校の帰りなの。」
そういえば椿は女学校にすぐに進学したんだっけ、と泉は思い出す。
「あ、そっか・・・でも椿さんのうちはこっちじゃなくて、」
「うんっこの川が懐かしくなっちゃって。」
椿はまたにこりと微笑む。泉達の通っていた学校はこの川の向こう側に位置していた。
「そうなんだ、椿さんもこの川が好きだったの?」
そう言えば椿と初めて会ったのは入学間もない頃の子供の頃だった。と泉は思い出す。まさにこの川べりで。
「え、好き・・・といえば好きよ。学校のシンボルみたいなものだし。」
ふふふ、と椿は何故かとてもうれしそうな表情をする。
「思い出があるの。」
「へぇ・・・。」
自分が思い出にしているこの川が同じように彼女の思い出なのがうれしかった。とはいってもあの学校の生徒だったら誰でもこの川で思い出すことは多いのだろうが。それでも椿の顔を泉がまぶしそうに見つめてしまうのは水が反射して輝くせいだけじゃない。この可憐な少女に在学中からほのかな恋心を抱いているのだ。
内気な彼に気持を打ち明けられるはずもなく、もうそのことも思い出の中にしまい込んでいた泉だが、突然の再会により風化していた恋心が以前より少しの激しさを増して心でくすぶり始めるので、泉は少しだけ困惑していた。

「泉君は今何してるの??」
椿はくるくるとした瞳で泉の顔をじっと見つめた。
泉は顔が熱くなりそうになって慌てて目をそらす。少女には悪気はないのだがこうやってヒトの表情を見つめるくせがあった。
しかも本当に心からヒトに対して興味を持った眼差しで不愉快なところはどこにもない。そんな彼女の視線が泉は好きだったが、昔から同じように見つめ返すことは出来ないでいた。
「俺は、まだ決まってなくて、なにか職に就きたいんだけど。今ちょっとね。」
「あ・・・そっかお母さんが・・・」
椿が気まずそうに言葉を閉ざす。風の噂で母が出て行ったことを誰かに聞いていたのかもしれない。
何せ兄と父はこの辺ではかなりの有名人である。
「いや、気にしないで。そんなに、何かあるわけじゃないから・・・。」
何が『そんなに』なのか泉自身全然判らなかったが、ともかく何か言わないとと思うあまり発した言葉に彼自身が言葉に詰まる。
ここで父や兄ならきっと上手く言葉が出るだろうに。泉はこんなときだけでも父が尊敬出来る様な気がする。
「あ・・・いや、何かっていうか・・・その・・・」
「ごめんね私、返って泉君に気遣わせちゃって」
苦笑しながら椿が申し訳なさそうな反面なんとか取り繕うと口を開く。
「妹さん小さいから・・・泉君も蒼君も凄く大変だと思うけど・・・上手く言えないけど、元気だしてっ。何も出来ないけど何か相談があったら話だけでも聞くからっ!」
椿の言葉は一生懸命泉に向かって来ているのを感じるに十分だった。
泉は照れくさそうに笑って小声でお礼を言った。
「あ、泉君が笑うとこ久しぶりに見たわ。やっぱり笑うと可愛いよっ泉君。」
女の子から、ましてや憧れの彼女からそんなことを言われ泉はまた少し赤面して顔を背けたのだった。
けれどそのほんの少しの時間が泉にとっては久々の心から楽しいと思える時間であったことには間違いなかった。




その日の夜、偶然だろうが随分久しぶりに夏宮家は揃って夕食をとっていた。
「泉くーん腕を上げたね。さすが僕の息子だね。」
さすがにこんな父親でも家族との食事は楽しいのか機嫌よく箸をすすめている。
「おにいたんおかあり」
春もちゃわんを持ち上げて催促している。育ち盛りだからか本当に良く食べる。
「泉、今日はなんか機嫌いいんだね。珍しい。イイことあった?」
上品に食事していた蒼が泉に微笑みながら話しかける、泉はどきっとしてしゃもじを取り落としそうになった。
「べ、別に・・・特に何もないよっ」
泉は自分でもやや赤面してしまっているのが判る。我ながら恥かしい。
他の殆ど誰も自分の表情の機微など読み取る人間はいないためそういう指摘をされることに泉はまったく慣れていなかった。
「ふぅん、元気そうで良かったよ。」
にこりと笑って蒼は食事に手を戻す。深くは聞いてこないが彼なりに心配してたんだと泉は解釈して兄に対して申し訳ない気分になった。
「ごめんありがとう・・・。」
「何が??」
ヒトが素直に感謝してるのに蒼はもう聞いていない様子だった。実に彼らしい。
その様子に泉も何だか安堵して食欲が出てきたので自分も二杯目をおかわりするために立ち上がった。